UZU・UZUインタビュー17-2

橘家 圓蔵 インタビュー

落語界の最高レベルの芸人として賞される江戸落語の中心的人物、橘家圓蔵。えずこ寄席二人会(2002年2月3日開催)を直前に控え、落語界に入るまでの生い立ちやおもしろ落語のルーツなど伺いました。また、急逝された志ん朝師匠への熱い思いを語ってくれました。


橘家 圓蔵 (Enzo Tachibanaya)
(2002年2月3日インタビュー)

橘家 圓蔵(噺家)プロフィール
故、林家三平の「よ、し、こ、さ〜ん」に対して、「うちのセツコ」で一世を風靡したのが前名、月の家円鏡こと橘家圓蔵である。昭和27年に月の家円鏡時代の橘家圓蔵に入門し、昭和40年に三代目、月の家円鏡を襲名し真打ちとなる。高座だけでなく司会やバラエティー番組でも絶え間なくギャグを発してバイタリティー溢れる話術を展開し“円鏡・三平時代”の到来の感があった。しかし、四十代半ばにタレント的面白落語家から本格的な面白落語家を目指し、落語家としての基礎と骨格を一段と鍛え整えるため、マスコミ仕事を控えて独演会等をスタートさせ、古典に磨きをかけた。昭和57年に八代目、橘家圓蔵の襲名を機に本格派面白落語家・橘家圓蔵の真価を発揮し、また一つのピークを作り上げた。円鏡時代からの「日常すべてが笑いのサービス精神」は今も健在で繊細にして大胆な粋な江戸っ子である。

誰にも負けない落語を
       五席もっていれば
   その落語家は本物と
         いえるんじゃないかな。


Q:寄席の世界に入る前は、紙芝居を子どもさんにされていたということですが。噺家になられたきっかけは何でしたか。
小学5年生のときに山形の鶴岡市の湯田川温泉に学童疎開してたんです。実は僕のうちは紙芝居屋だったんですが、あるとき雨が降っていて外で運動もできないから、先生が何かしゃべれっていってきましてね。それでしゃべったんです。そしたら先生が「おもしろいね。」って、「落語家にでもなっちゃいなさいよ。」って言いましてね。きっかけというのは、その一言だったんです。戦後、家に戻ってからは生活のためもあったんですが、やっぱり落語家になるために紙芝居をやりました。だいたい二年ぐらいだったでしょうか。でも好きだったことがもう一つのきっかけでしょうね。そのころ学校へは行かなくても、浅草にはしょっちゅう行ってましたよ(笑)。シミキン(清水金一)とかキドシン(木戸新太郎)、それからエノケン(榎本健一)ですね。芝居というのはみんなでやる。でも、落語というのは一人で人を魅了する。芝居を見れば見るほど、やっぱり落語に惹かれましたね。だから、僕は好きなことが見つかって、最初から打ち込むものがあったというのは、ほんと幸せだと思いますよ。でも、この世界が厳しいのは、結果が野球選手のようにスコアとして出ないということですね。そういう意味では、ほんとに厳しいと思います。終点がない仕事なんですね。もちろん、みなさんがしている仕事だって同じようなことはいえると思います。すべてがスコアとして評価されないということです。

Q:円鏡時代に家の節子ということが一世風靡した時代、立川談志、三遊亭円楽、古今亭志ん朝の各師匠と並んで四天王と呼ばれていましたが、そのころどんな気持ちで落語をされていたんでしょう。
正直、負けたくないという気持ちで落語に向かっていました。四天王だなんていうのも周りがはやして言ってくださったことです。でも、ライバル意識は強かったですね。落語家には3つの仕訳があって、うまい落語家、達者な落語家、そして、おもしろい落語家に分けられると思うんです。うまい落語家というのは志ん朝師匠ですね。達者というのは談志師匠ですね。そうすると私はおもしろ落語しかなかったんです。幸い私の兄弟子が三平師匠だったこともあって、おもしろ落語に走るきっかけになったんです。それで、三平兄貴が当時ヨシコ、ヨシコで売っていたのはご存知でしょう。節子っていうのは文楽師匠の女中だったこともあって一緒になったんですが、当時それをうちの節子っていうふうにしたら、大うけだったんです。三平兄貴はとても懐が深くて、本当に素晴らしい人で、それをどんどん使えってくれました。ただ、同時にこんな話をしてくれました。ネタをとって大きくなれるなら、どんどんやれと、でもそのあとは、必ず壁にぶつかる。そのときに苦しんで出てくる芸が本当のお前の芸なんだって、そんなことを話してました。

Q:古今亭師匠が亡くなりましたが、師匠とは交友もあったと聞きましたが。
何年か前、協会が分裂したことがあったんです。僕も志ん朝さんもすぐに戻りましたがね。そのとき、一緒に飲んだことがあっったんです。なんかわかんないんだけど、悔しくてね。お互い泣きながら飲みましたよ。そのとき、仲良くしようって話しましてね。芸人どうしが仲良くして、仲良しクラブになってたらだめなんですよ。晩年は、そういうのも超えてましたね。本当に素晴らしい人間でした。僕ぐらいになるとあまりこんなことはないと思うんですが、志ん朝さんに芸を稽古してもらいましたよ(笑)。芸に関しては差別せずにお互い、いましたね。

Q:これからやってみたいと思われることなどはありますか。
桂文楽師匠、古今亭志ん生師匠、三遊亭圓生師匠、柳家小さん師匠などの大先輩ですが、本当の意味でこの人たちだって五隻持ってれば、もう最高だと思いますよ。但し、その五席は絶対に人に負けないものです。志ん朝さんだって十席もってなかったかもしれません。だから、あればいいってもんじゃなく、そしてやればいいもんじゃないんです。今もっているネタを練って練って、本物にすること。それが僕にとって、今やらなくちゃいけないことだと思っています。落語って例えると、ワインみたいなもんで、落語家にとっても何年ものが1番いいかってあるんですよ。僕も落語のプロですからね。それは聴くとわかりますよ。だからこそ、落語家の持っているものを最高のものにする努力は惜しんじゃいけないんです。根本は落語が好きでも、好きだ好きだと言っているうちは、アマチュアですよ。苦しさの方が大きいですからね。僕なんか年間五百席はくだらないですけど、そのうちの自分でもこれだって思うのは、そのうちの五席ですよ。“セキ”の意味が違うけど、一席もできない落語家って実際は9割ぐらいはいるんじゃないかな。厳しいようだけど、それが現実だし、そこを超えた者がほんものの落語家になれると思うなぁ。

Q:時間があるときはどんなことをして過ごされていますか?
料理が好きですね。実は、事務所で結構料理をするんです。簡単なものが多いですが、作るのは楽しいね。これは落語にも通じるんです。うまいとかまずいの表現もできないのは、だめな落語家ってね(笑)。それから、ゴルフもやるんだけど、これも楽しいですね。ゴルフやってるときは、ちょっと大げさだけど30秒ごとに気分変わりますからね。ダフっちゃってギャ〜って言ったり、ストレスもあるんでしょうけど、ドライバーとかで思ったとおりに飛んだときなんかは、それはもう最高の気分ですよ(笑)。


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