UZU・UZUインタビュー17-3

笑福亭 仁鶴 インタビュー

2002年2月3日に開催した「えずこ寄席 二人会」。関西落語界における代表格、笑福亭 仁鶴 師匠がここえずこホールを訪れました。TVでもおなじみの人間性あふれる笑顔と芸人としての厳しい素顔をときおり覗かせながら、落語界での半生を振り返っていただきました。


笑福亭 仁鶴 (Nikaku Syoufukutei)
(2002年2月3日インタビュー)

橘家 圓蔵(噺家)

大阪万国博覧会で大阪の町が沸き立った昭和45年、テレビやラジオで落語家出身の人気者が大活躍して、戦後上方落語の第一次ブームが起こった。それまでの大阪のタレント地図をコメディアンから若手落語家へと塗り替えた、その旗手的存在が仁鶴であった。「テレビの視聴率を確実に5%上げる男」として話題をまき、テレビだけでも週6本、他を加えるとレギュラー番組が何と10本を優に超え、睡眠時間も2〜3時間という超人的なスケジュールをこなしていた。こうした活躍のおかげで「大阪のお笑いの顔」として全国に知られ、仁鶴時代を築き上げた。昭和59年1月には仁鶴の師匠である六代目笑福亭松鶴と13日間連続の親子会「松鶴・仁鶴極め付き十三夜」を開催した。これを契機に、以前の「軽さ」から抜け出て、人間への「思いやり」や情的な「温もり」といったものを深め『大人の笑いと話芸』を大切にし、師、松鶴の芸風を受け継ぐ立場で、古典派の中心的な役割を果たしている。現在は、毎週土曜日の昼、NHKテレビ「バラエティー生活笑百科」で「四角い仁鶴がま〜るく納めまっせ…」と、あたたかみのある司会ぶりを発揮して活躍している。


中腰スタイルでの落語の原点。
 それは、お客さんを
   包み込むようにして話したい。
     そんな自然な気持ちからでした・・・。


Q:落語界に入られたきっかけですが、何気なく入った古道具屋さんで見つけた落語のレコードがきっかけだったと伺いましたが。
古道具屋さんの店先に浪曲とか、講談、邦楽といったレコードが山積みになっていたんです。それまでは、大阪に落語があるとは知らなかったんです。そのとき、17歳ぐらいだったと思います。NHKなどのラジオで流れてくるのは、東京の師匠がたの落語でした。その古道具屋さんから買ったレコードを家に帰ってから蓄音機で聞いてみると、初めて聞いたんですが大変おもしろかったんです。友達何人かと聞いていたんですが、おもしろいと笑っていたのは、僕だけですわ。テンポが速くてきわめて大阪的な笑いで、友達は一回聞いただけでは少し理解ができなかったようで反応がなかったんですけれども、僕だけは最初からこんな芸が大阪にあるんやと思いましたね。それで、すぐに覚えたんですわ。例えば、「金の大黒」とか「へっつい盗人」などでした。当時、大阪には素人参加の演芸番組がいろいろあって、そこに参加するようになったんです。そしたら、すばらしいと言っていただいて入門というふうになったわけです。番組には何度も参加してましたから、そのころにはもう放送局の方が黒塗りの車で自宅まで迎えにきてくれましたよ(笑)。

Q:初代松鶴師匠に弟子入りされたのが昭和37年ということでしたが、しばらくして吉本興行に入ることになりますが、きっかけというのはあったんでしょうか。
松鶴師匠に弟子入りして1年半ぐらいで、よしもとに入りました。当時よしもとには落語家が二人ぐらいしかいなくて、芝居やコントと漫才、それから手品などで興行をやっておったんです。京都花月と梅田花月となんば花月の3つあったんですが、落語家がいないもんですから、ほかのもので勝負しようということだったんでしょうね。僕はそのころ研究会で高島屋や三越で落語をしてました。それで、先代の染丸師匠がよしもとにおられまして、そのとき落語協会長だったんですが、僕の落語がよしもと向きではないかということで、よしもとに入ることになったんです。

Q:昭和45年ごろ大変な人気が出まして、なんば花月に8000人が押し寄せたというエピソードがありますが。
無我夢中でした。そのころは心そこにあらずでね。一日に何箇所も回りましたよ。劇場を出て東京へ行って一席やって、帰ってからもう一席やるというふうでした。人気が出る前は、OBCの「大阪オールナイト夜明けまでごいっしょに」という夜中の2時半から朝の5時半までの番組のプロデューサーからお誘いを受けまして、その番組に出演していました。当時、その時間帯には番組はやっていなかったんですが、受験などで夜起きている学生さんも多いのではないかということで番組を始めたんです。僕もそのころ若手でしたからとにかく一所懸命やりました。人気が出たきっかけはその番組でしたね。その後、ヤングオーオーに出演したんですが、新しい構成の番組で、ラジオ番組のヤングタウンのTV版でした。そこで僕ははがきのコーナーを担当しました。

Q:それからはTVやラジオに大活躍され落語や歌のレコードも出されました。レコードを出されたきっかけなどはあったのでしょうか。
朝日放送で朝7時ごろの番組だったんですが、その番組用に曲を作って、番組の中でそれを紹介するというものだったんです。「川は流れる」など何曲かヒット曲を出している番組でもあったんですが、あるときそこのディレクターが、ラジオのオールナイトの番組で僕がロシア民謡を歌っているのを聴いて、この番組用に曲を作るから歌ってみないかと誘ってきたんです。それが「おばちゃんのブルース」でした。私が31歳か32歳ごろだったと思います。寝る時間を惜しんで仕事をしてましたね。、若さだけだったですよ。失うものがなかったからやれたんでしょうね。

Q:そのころの思い出話などありましたら、お聞かせください。
大阪に「世の中逆さま」というドラマがあったんですよ。これに僕が出させてもらってました。東京では、「男は度胸・徳川太平記」という柴田錬三郎さんの原作のドラマで、浜畑賢吉さんが主役吉宗を演じていた時代劇がありまして、私は吉宗のいつも側にいる嘉吉という役でした。昼はこっちのロケで、夜はあっちというように体二つに割ったみたいに仕事をしてました。森繁久弥さんやフランキー堺さん、三木のり平さんなどそうそうたるメンバーが相手でしたから、かなり無茶なスケジュールで仕事をして、だいぶ恥じもかきました。でも、いい勉強にもなりましたよ(笑)。

Q:そのころ、人と違うこれまでの落語家にないイメージでやろうと考えていたと伺いましたが。
そうですね。まずはお客さんの喜ぶことですね。それまでも噺家はみなそうしてましたが、時代が変わって今までの形では少し手間がかかると感じたんです。それで、少しだけ行儀をはずして手っ取り早く笑っていただこうと考えていました。先輩師匠方がそれまでちゃんとやっていただいてたから、僕ら若手は自由な笑いを追求できたんでしょうな。

Q:中腰での落語というのが、師匠のイメージにあるのですが、それはどんないきさつから中腰スタイルで落語をされたんでしょうか。
1000席ぐらいある元映画館だった劇場で、奥が深い劇場でした。後ろのお客さんは僕の顔が見えないくらいのところにたくさん入りますからね。高座に座って落ち着いて話をする雰囲気ではないんですよ。それで少し立ち上がってお客さんを包み込むような気持ちになって、中腰スタイルでの落語になったんです。それも自然にそうなったんですわ。

Q:これから新しく芸でやってみたいことなどはありますか。
もうたくさんやってきましたからね。あえて言えば、ネタをちゃんと形を整えながら、ちょっとずつ増やせたらと思っています。それから、ゴルフがシングルになりたい(笑)。噺家ですから、普段は口の周りを動かすけど体はうごかさないでしょ。ゴルフは、唯一の運動です。これをしてるから、足腰がしっかりしてるんだと思うんです。肉体的健康法でもあって、精神的健康法でもありますね。

Q:時間があるときなどは、どんなことをして過ごされているんでしょうか。
いろいろな本を読んだりして過ごすことが多いです。例えば、評伝とか自伝など人の生き方について興味をもってよく読んでますね。最近だと石原慎太郎さんの「わが人生の時の人々」や直木賞作家の佐藤愛子さんの「血脈」とか読みました。それから、ウサマ・ビンラディン氏がどんな人物なのか興味があって、たくさん出ているアフガン関係の本を読んだりしてます。結構濫読ですね(笑)。


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