1520世紀から21世紀へ・・・。
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さだまさし
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Q:小さいころ、音楽をヴァイオリンから始められたということですが、どんな経過で音楽に入られたのでしょうか?
両親が音楽好きだったものですから、3歳ごろからヴァイオリンを始めました。自分のことですし、あまり意識はしていないのですが、長男でしたし、割合じっくり考えるタイプのこどもだったと思います。高校3年生のとき、音楽大学を受験すべきかどうか悩みましたが、音楽大学をあきらめたときに、クラシックはやめたんです。ですから、18歳ぐらいまで一所懸命弾いてたんですね。ポップス系の音楽への興味は、小学校のころTV番組の「夢で逢いましょう」なんか見てましたので、そのころ初めて歌謡曲を聴いたぐらいでした。中学1年になって、ヴァイオリンの先生に呼ばれ上京し、東京で一人暮らしを始めました。その下宿生活中、ラジオでサイモン&ガーファンクルを聴いて憧れたんです。それから中学2年のときに加山雄三さんの真似をするようになってから曲作りをするようになりましたね。でも、どんな音楽も全部クラシックが基本になっていますから、まったく理屈が違うわけではなく、格別違うことをやっている意識はなかったですね。
それから、僕らが中学高校時代のヒットチャートは、今なんかよりずっと健全だったと思うんです。今は、映画なんかはアメリカのものが主体ですよね。というより、すべてアメリカのものといっていいんじゃないかと思います。当時は、例えばシャンソンがベストテンに入っていたり、カンツォーネや日本の歌謡曲が入っていたり、あるいはジャズが入っていたりしてたんです。ですから、そういう意味では音楽自体健全なバランスを保ってたと思うんです。そういう時代にいろんな音楽を聴いて育ちましたから、今の若い人たちのいうポピュラーミュージックと僕らのいうポピュラーミュージックの感覚が違うと思いますね。
大学に行ってからは、結局ヴァイオリンを弾かなくなりまして、簡単にいえば、クラシックから挫折したといってもいいと思います。でも、幸いにして3歳のころからずっと音楽をしていると、譜面を読むことには苦労しないし、例えば音が鳴っていると、それを譜面に落とすことも苦労しなかったので、便利だったですよ。大学で仲間が遊び半分でバンドを組んだときも、僕がパート譜面を書いて、みんなに譜面の読み方を教えたりすることを遊びながらやっていました。でも、それの延長で本業になろうとは、考えもしませんだしたよ。本当に(笑)。
あのころは、70年安保前後のフォークソングブームで、僕らがグレープとしてデビューした1973年には、フォークブームも下火になりかかっていて、各地に林立したフォーク村もなくなりかかっていたころですね。実は、僕らがやりたかったことがフォークソングではなくて、今分かりやすくいうとジャズロックなんですよ。僕がヴァイオリンを弾いて、相棒の吉田がギターを弾いて、2人でかなりジャジーなことをやってたんですよ。それだけだとお客さんは退屈でしょ。だから、分かりやすいものとして歌詞のついたものも演奏しました。その時代にとって一番分かりやすかったのが、フォークソングっていう畑だったんです。
僕らがやってたことがおもしろかったらしく、長崎では話題になりまして、フォークソングとしてのオリジナルの評価があったり、実験音楽として僕らがやっていたジャズロックみたいなことが、グレープというフォークデュオの奥行きになって、お客さんにとってステータスになったわけです。ずいぶん人気も出まして、活動をはじめて3カ月もたたないころ、スカウトの人が来たんです。でも、デビュー曲「雪の朝」が売れなくてね・・・。それで、74年2曲目に出した「精霊流し」のヒットが僕らグレープにとっても大きなことだったと思いますね。 |
Q:さださんの音楽を聴きにこられるお客さまは、とても年代層が広いのですが、そうした世代を超えて引きつけるさださんの音楽の魅力をご自分ではどうお考えになっていますか?
常に同世代に伝えて話しかけてきたつもりだったんですが、でもグレープにせよ、さだまさしのソロにせよ、支えたのは、当時の中学生、高校生でしたから、今の中高生でも理解できないわけでもないですよね。だから、お母さんやお父さんの影響でさだまさしを知って、ライブに連れて来られて聴いてみるとおもしろいっていうことで、追体験としてグレープなど初期のころに追いついて行って別の形で理解するっていう若い人たちが多いですね。ですから、親子連れは不思議じゃなく、むしろ多いんです。それから、男性の比率が増えましたね。同性が増えるというのは、やりがいがありますよ。
Q:最近のヒット曲にはメッセージがない、あるいは曲の作り手の姿が見えてこない、と以前おっしゃっていましたが、少し具体的にお話しいただけないでしょうか?
今の音楽というザックリとした言い方を許していただけるなら、受け手中心の聴く側が都合のいい音楽っていうんでしょうか。音楽という娯楽の性質が変わったんでしょうね。かつて、僕らのころは、音楽というのは娯楽の中でも非常に重要、発信者のメッセージを聞き取ろうとしていたし、そこから新しい音楽、表現、リズム、そして言葉とか旋律を発見したとき、自分が高まったという喜びがあったと思うんです。今は新しいトライというのではなく、あるものを聴き手に都合よく装飾して並べ、ウィンドウに飾っておく。それでもやっていけるのは、カップラーメン世代っていうのかな・・・。同じ味でいいんだっていうのに例えちゃいますね。毎日同じでいいっていうのが、今の音楽に多いと思うんです。僕は、毎日ちょっとずつでいいから違うものを食べたいと思う方なんですね。でも、カップラーメンもたまに食べるとはまっちゃうんですけどね(笑)。
Q:さださん自身これから歌とか音楽に何を託したいとお考えですか?
自分の歌のテーマは、生きることそのものなんですが、生きるっていうのは、3分の1ぐらい悲しくて、3分の1ぐらい悔しくて、3分の1ぐらい可笑しいことだと思うんです。だから、その3本の脚で僕らは立っているような気がするんですよ。悲しいのと悔しいのと可笑しいのと・・・。結局、僕らにはどうにもならないものがいくつかあって、例えば、生まれてくる時代を選べないとか、名前を選べないとか、そういうことの中から、自分という幻想を現実にし、本当の自分になっていく。そうしたときに自由になる自分を表現しながら、僕らは一所懸命生きているように思うんです。 |
▲熱いメッセージを伝える歌が、 会場全体に響き渡りました。 |
それでも、絶対に自由にならないのが、命と時間と心だと思うんです。このことが底辺にあって、ふるさとと日本について考えているんです。それを全部シャッフルして、その中から現代を切り取るんです。そして、悲しかったり、悔しかったり、可笑しかったりすることを手のひらに広げ、僕は表現するんです。そうして、悲しいのも、悔しいのも、可笑しいのも聴いた側が自分だけじゃなかったんだと代弁していくことが、僕らの仕事のように思います。だから、僕のやっていることは、本来ロックアーティストのやるべきことなんですね。ロックっていうのは、世の中が変だと思ったら変だと発言する意志を“ロック”というんだと思うんです。今のロックは、そういう意味でほんとのロックじゃないですね。だから商業音楽をやりながら未だに反戦歌を歌ってるシンガーなんてさだまさしぐらいしかいないんじゃないかな。ちょっと寂しいね。今こそフォークも反戦歌が必要なのにね。本当に悔しいですよ。
Q:最新CDは「上を向いて歩こう・遠くへ行きたい〜さだまさし・永六輔・中村八大を歌う」、また、童謡集も出されましたが、何かきっかけはあったのでしょうか?
唱歌は、僕を支えてくれた女性ファンの人たちが母親になって子どもたちといっしょに聴いたり歌ったりするのがないというのが嘆きだという声があって、さだまさしの声でそれを歌ってほしいという要望は、今から15〜20年も前からあったんです。
それを形にしようということで10年ほど前に童謡集「にっぽん」を出したんです。これが好評で、「続にっぽん」っていうのを出したんです。この2枚は廃盤になってしまったんですが、これがまた最近になって見直されて、それらの中からベストという形で唱歌集を出したんです。それから、永六輔・中村八大集っていうのは、TV番組の「遠くへ行きたい」で主題歌を僕が担当したんです。そのときせっかくこれだけいい楽曲なのに、TVだけでおしまいにするのはもったいないという話になったわけです。僕の方は、自分の原点に近いこの歌をぜひやらしてほしいということになって、ミニアルバムを出したんです。僕の原点になったなじみの歌ですから実に染み付いているんです。自分の歌よりうまいんじゃないかなって感じですよ(笑)。 | ▲楽しいトークで、会場からは笑い声が。 時が経つのも忘れさせるひとときでした。 |
Q:好きなアーティストあるいは、影響を受けたアーティストがいたら教えてください。
僕が一番影響を受けたのは、ポール・サイモンです。サイモン&ガーファンクルですね。それから、加山雄三さんにも強い影響を受けています。それと永六輔さん、中村八大さんの影響はものすごく大きかったですね。最初クラシックしか聴いてないですからね。TVを見せてもらえるようになって初めて聴いた彼らが、一番強い影響があったんじゃないかな。
Q:これからの計画、やってみたいことについて、仕事の面とプライベートの面をそれぞれ教えてください。
仕事の面では、山積みになってるんです。例えば、出版の企画があって、年内だけでも4種類の企画があります。それだけで1年なんてあっという間に過ぎると思うのですが、それに加えて21世紀になった年の企画に、新潟でミニミュージカルをやるというのがあるんです。その楽曲とアルバム(木を植える男〜緑百年物語〜)づくりがあります。それ以外にもアルバムをつくる予定もあるんです。さらに、2つほど別な音楽企画があります。おそらく今年と来年が僕の人生にとっても、最も忙しい2年間になるでしょうね。骨身をけずって働く2年になりそうな予感です。あとは体ですね。体だけはきっちりしなければいけないと思います。
プライベートなことでは、30ヤード以内のアプローチですね。それが総てです。他にないですよ(笑)。ゴルフは今燃えているところで、生活って悩みだらけじゃないですか。ゴルフをしているときは、ボールのことしか考えなくて空っぽになれるんです。本気で喜んだり、本気で怒ったりできるんです。それから、パチンコも好きですね。パチンコの場合は、やりながらあの2曲目はこうゆうアイディアかな、とかあの曲はこんなアプローチの方がおもしろいなと考えながらやってますね。それで、帰ったら最近では筆記にパソコン使っているんですが、そのことをまとめるんです。
今日は何もしなくていいって、そう許される日が僕にもあります。そんな日は、ゴルフして、パチンコしてそのあとみんなで飲んで、そんな感じですね。タバコやめたら太ってきちゃってね。今まで太るっていうのが僕のテーマだったんだけど、これからはやせるっていうのが僕のテーマだね。僕の人生の中で初めてだよ。そう、水着を着られるまでにやせよう(笑)。
98年の長野オリンピック公式メッセージソング「DREAM〜愛を忘れない〜」を発表。同年、デビュー25周年を迎え、記念コンサートを全国主要都市で開催。99年には、シドニー(4回目)、ロサンゼルス(初公演)海外公演を成功させる。デビュー以来、活動の中心をコンサートに置き、年間100本を越す全国ツアーをこなす。2000年6月、ロンドンのロイヤルアルバートホールで日本人男性アーティストとして、初の公演で成功を収めるなど、わが国を代表するアーティストとして、国内外から高い評価を受け、多彩な活動を繰り広げている。2001年4月25日には、アルバム『木を植える男〜緑百年物語〜』を発売。 |