山崎清介さんインタビュー
7月9日、子どもから大人まで誰もが楽しめると評判の高い、子供のためのシェイクスピアカンパニー10周年記念作品「ハムレット」を上演。
その演出家であり、役者としても油の乗り切った活動を展開する山崎清介さんにインタビューしました。
山崎清介さん
えずこホールにて
(2004年07月08日)
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〈Y:山崎清介さん、Q:えずこホール〉
Q:福岡出身で、役者になりたくて東京に出てきたということですが、その辺りをお聞きします。
Y:福岡大学の演劇部に所属していて、そのころから役者になりたいなと思ってたんですが、当時福岡で演劇を勉強できるところがなくて、上京して青年座の養成所に2年間行きまして、準劇団員になって1年10ヵ月でやめました。そのときはぼく一人じゃなくて何人かやめて、劇団を作ったんですね。で1年後にその劇団が駄目になってEDメタリックシアター('84〜'93)を立ち上げました。
Q:そのころは、どんな演劇を目指してやってらしたんですか。
Y:そのころは小劇場ブームで、シェイクスピアは別物っていう感じで…、夢の遊民社がどんどん大きくなっていく丁度そのころでした。20代半ばですから、古典も新劇もやりたくない。小劇場で好きなことやりたいっていう感じでしたね。
Q:そのころ演出、役者で目指してた方はいますか。
Y:そうですね。唐十郎さんは作・演出もさることながら、役者としてとても魅力的な存在でした。それから、僕の同期に段田安則がいて、彼が夢の遊民社に入り、それで夢の遊民社を観にいくようになったんですが、僕にとって段田安則はトップレベルの演技者として好きでしたね。
Q:87年から93年まで、テレビの「ひらけ!ポンキッキ」でレギュラー出演されましたが、出演のきっかけはどんなことだったのでしょうか。
Y:あれはオーディションなんですね。15年務められた はせさん、パンチョさんが辞められるということで、オーディションを受けにいったんですが、小劇場の知り合いの役者がいっぱいいましたね(笑)。それで受かったんで6年間やりました。
Q:「ひらけ!ポンキッキ」をやって自分が変わったこと、あるいは特に印象深かったことはありましたか?
Y:現場的なことですけど、カメラが回ってるところで意識しないでいろんなことが出来るようになったっていうことかな。それから、これは反面教師ということなんですが…、ポンキッキという名のもとでショーを作って全国を回るという企画が毎年あって、ガチャピン、ムックがステージに出ると、それはすごい盛り上がりなんですね。で、ショーの中身がゆるくなると「さあっ」ていう感じで番組で使っている曲を流して、みんなで歌って盛り上げる。そんなふうにして舞台上からサービスを過剰に提供してずっと引っ張っていくんですよ。子どもたちは、「次は何だぁ」という感じで、自分からではなく与えてくれるのを待ってる。
で、そのときは気づかなかったんですが、「子供のためのシェイクスピア」の企画をいただいたとき、すごくハードルが高いなと思って、何をすべきかって手探りで考えたとき、ポンキッキの経験から、ああいうスタイルではやりたくないなっていうのがありましたね。
Q:グローブ座カンパニーが91年に立ち上がって、最初から参加されてますが、そのいきさつは?
Y:第一回目のグローブ座カンパニーの演出が出口典雄さんで、それまでグローブ座は、海外の招聘ものやどこかの劇団の作品をかけたりしてたんですが、日本のいろんな役者を集めて演出家を呼んで、プロデュースものでいこうということになったんですね。
それで、青年座の同期に上杉祥三がいて、出口さんが彼をすごく気にいっていたことから、最初彼に話があって、彼から僕に「やってみる気ないか」って連絡があったんです。シェイクスピアっていうと、僕は、青年座の養成所の発表会で「恋の骨折り損」を一度やったきりだったんですが、役者として一度はやってみたいなという気持ちがあったので参加したということですね。
Q:グローブ座カンパニーという名称ですが、すべてプロデュース公演だったんでしょうか?
Y:そうです。集団名はグローブ座カンパニーなんですが、プロデュース公演で毎回違うメンバーでした。
Q:95年まで海外の演出家ペーター・ストルマーレ、ジェラード・マーフィー、ロベール・ルバージュなどの演出家によるシェイクスピア作品に参加していますが、みなさんイギリスの演出家だったんですか?
Y:ペーター・ストルマーレはスウェーデン、ジェラード・マーフィーはイギリスですけど出身はアイルランド、ロベール・ルバージュはカナダです。
Q:それまで小劇場系で活動して、一転してシェイクスピア、それも海外の演出家という体験はかなり勝手が違ったと思うんですが、どうでしたか。
Y:ペーターさんが「夏の夜の夢」を演出したときは、「僕は、日本で君たちとしか出来ないオリジナル作品を作る。既成概念は取り払ってくれ」と言われたんですね。たとえば恋人を取り合うシーンが異常にシリアスで、暴力沙汰で一人の女を奪い合う(笑)。まっ、彼はスウェ−デン人でバイキングの血かもしれないんですが、こういうやり方があるのかって思いましたね。
それから、言葉が分からなくても通じるなってすごく思いました。最初、稽古始めのときは、どういうコンセプトでやりたいみたいなことは、通訳がいないと分からないんですが、稽古なかばの「間違いの喜劇」のとき、電車が止まって通訳がこれないこともあったんです。そのとき、ペーターさんが「だったらいなくてもいい」って言ったんですが、全然大丈夫でしたね。
あとは、ジョン・レタラックさんの「ロミオとジュリエット」のとき、僕はジュリエットの父親で、最後二人の親父どうしが和解するんですが、レタラックさんが「この部分の台詞どう思う」って言うんですね。「俺が親父だったら絶対和解したくないです。こんな台詞吐きたくない」って答えたら、「それなら、絶対和解したくないという気持ちでこの台詞を吐いてください」って言ったんですね。
言葉としてはこう書いてあるけど、腹の中はどうかっていうところまでは戯曲には書いてないですよね。だから言葉としては和解の台詞なんだけど、シチュエーションでどうにでもお客さんに伝えることができるんだということですよね。なるほどなあと思いましたね。
Q:4年間で17本のシェイクスピア作品に参加されたわけですが、すごい作品数ですね。それで、そのあと「子供のためのシェイクスピア」が始まるわけですが、どんないきさつだったのでしょうか?
Y:当時のグローブ座の支配人の高萩さんが、夏休みに子どもに見せるためのシェイクスピアをやろうと思うんだけどどう思う?って聞いて来たんですね。それはたぶん僕がポンキッキをやってたからだと思うんですが、先ず最初にそれってたいへんだなって思いました。
でもハードルが高くて、壁があるとその先を覗きたくなるんですね。それで、やってみましょうかということになったんです。確かそれが94年の夏が終わったころだったと思います。
Q:1本目は「ロミオとジュリエット(演出/加納幸和)」でしたね。1本目をやってみた感想、手応えは?
Y:なんか異常に緊張しましたね。最初はまだまだ子どもたちの数は少なかったんですが、オープニングで奈落でスタンバイしてて、最初に役者が二人が出て前説喋るんですが、子どもたちの笑い声がときどき聞こえてくるんですね。「あっ、来てる。来てるよ。どうしよう」「どうしようじゃないよ。子どものためにやるんだろう」(笑)みたいな感じでした。
僕はジュリエットの乳母役だったんですが、「乳母じゃない。あなたは男だ」って指差されたらどうしようかと思いましたね。「ええそうです。男だけど乳母の役やってるんです」みたいなことを説明しなくちゃいけないのかなとか思ったんですけど(笑)。
でも、そういうことは全くなくて、最初は暗黙の了解というか「サンタクロースってほんとはいないんだよ」「ガチャピンって人間入ってたんだ」みたいなふうに自ずと分かっていくもんなのかなと思ってたんですが、 そうじゃなくて想像力で観てくれてるんだなっていうのを実感したんですね。たとえばママゴトでおもちゃのお椀に砂を盛って「お帰りなさい」「ありがとう」とかってやってたりするわけですが、それは暗黙のルールじゃなくて想像力なんだなあ、これはやられたなあって思いましたね。
Q:山崎さんが演出を始められたのは何本目からでしたか?
Y:次の年、2本目「十二夜」からです。僕は演出をやりたくて東京に出てきたわけじゃなくて、2本目も加納さんにお願いすればいいんじゃないかって思ってたんですが、花組の公演と重なってて加納さんにも花組みの役者さんにもお願いできないっていう状況があって、当時の制作から、山崎さんお願いねって軽くいわれて、「いいっすよ」って軽く返事しちゃったんです。
でも、実際は不安だらけで、プランをばっちり決めて挑まなきゃ、役者から聞かれたらすべて答えなくちゃ、分からないなんて言えない、みたいな、そんながちがちの状態でしたね。今は平気で「分かんないよな。どうしよう」って平気で言えるんですが(笑)。それから、いろんなプランナーの方と接したり、制作的なことも考えていかかなきゃならない部分もあって大変でした。
また当時はグローブ座が傾きかけてた時期で、浅利慶太さんが入ってきて、スタッフが劇団四季のスタッフと総入れ替えみたいなこともあって、それでも緊張しましたね。「ああどうなるんだろう。四季だよ、四季。なんだよおい(笑)」みたいな感じ。
でも四季のスタッフさんと出会えたのはいい経験になりましたね。日本のスタッフチームが海外のビッグヒットのミュージカルと全く同じ物を作んなくちゃいけないわけじゃないですか。ですから、衣装さんが現場に来てくれて採寸するんですが、こんな細かい採寸をされたのは初めてっていうくらい事細かなんですね。それで衣装さんが必ず稽古場にいてタイムとったりしてる。
それから、祭で売ってるプラスチックのお面みたいなのでいいなって思って、小道具製作の方にお面がほしいんですけどって言ったら、世界のカーニバル百科事典みたいな本持ってきて「この中で何かいいのありますかって」言うんですね。「えっっ!?一応見ますか」って、で、これいいなあっていうのがあったんで「このお面いいですね」ってオペラ座の怪人で使ったようなマスク見て言ったら、「分かりました」って言って、被る役者のデスマスクみたいなのを採って作ってくれたんですが、裏はビロード張りかなんかになってて、それにピアノ線がスーッと張ってあって、被るとぴたっとくるんですよ。
あの技術たるやすごいと思いましたね。でも、みんないい人たちでほっとしました(笑)。スタッフさんには恵まれましたね。人形は「ロミオとジュリエット」から使ってたんですが、四季のスタッフさんに改良して作ってもらったのを現在も使ってます。
Q:あの人形は毎回登場しますが、最初はどういうきっかけで使われるようになったんですか?
Y:「ロミオとジュリエット」のとき、僕はジュリエットの乳母役で、そばにいつもピーターっていう従者がいるんですが、あのころ一人二役はやってなくて、役者が一人足りない、じゃ人形でいくかってことになったんです。で、誰が動かすの?っていうことで「乳母のそばにずっといるんだから山崎さんがもってればいいんじゃない」、でも台詞あるよなあ。「山崎さんが喋ったら」「えっ俺!、それって腹話術じゃなの。やったことないよ」。
まっ、そんないきさつで登場するようになったんですよ。それで、人形の顔はどうするってなったんですが。チラシとかでよく使ってるシェイクスピアの似顔絵の感じでいこうということになって、それからずっと継続してるっていうことですね。
Q:ハンドクラップもよく使われますが、これはどんなところから取り入れられたんですか?
Y:これは「十二夜」のスタッフ会議のときに、高萩さんが、何か楽器とか使えるといいんじゃないっていう話になって、でも、僕もやったことあるんですが、役者が楽器やるって大変なんです。実際にやろうとすると本来ミュージシャンじゃないですから、台詞の稽古と楽器の稽古と両方やんなくちゃなんない。しかも予算もない。それで、お金のかからない楽器は手拍子かなって思ったのがきっかけですね。
Q:それは山崎さんのアイディアだったんですか?
Y:そうです。
Q:変拍子のハンドクラップになってますが、これも山崎さんのアイディアですか?
Y:「ハムレット」のハンドクラップは僕が考えたんですが、「リア王」から使ってる11拍子は僕の大好きなパットメセニーの「ファーストサークル」の頭のリズムなんですこれは要所要所で使ってます。最初、黒コートが円陣を組みたかったんですね。単純ですけど「ファーストサークル」を作りたかったというか、その思いで使おうと思ったんです。
Q:黒コートのアイディアはいつから?
Y:これも僕のアイディアで、予算がないということで始まったんですが(笑)。金が使えなければ頭を使おうということと、僕は、一旦芝居が始まっちゃったら、役者を楽屋に帰したくないと思ってるんですね。それは、メインの役者じゃないと楽屋にいる時間の方が長かったりすることがあって、もちろん楽屋でモニターでは見てるんですが、なんだか遠いところでやってる感じで、何かのきっかけで「あっ出番だ」みたいな…。
これはジェラード・マーフィーさんの「ヴェニスの商人」のときなんですが、出演者が全員舞台に出て、自分の出番が終わったら両脇にあるテーブルのところに座って舞台を見てる。
で、最終的に自分の出番が終わったらやっと楽屋に帰っていくという状況があったんですが、モニターで見てるのとは違って、近くで見てれれば微妙なところも分かって「あそこはああだったね」って後から言うことが出来る。だから自分の出番が終わっても常に黒コートでそこにいて、クラップ打ったり、机動かしたり、全員野球でやりたいという思いなんですね。
Q:それからイエローヘルメッツは、いつから登場したんでしょうか?
Y:イエローヘルメッツが、劇中に登場するのは「リア王」が最初です。今回の「ハムレット」で2回目。「リア王」でグロスターがドーバーの崖から飛び降りるシーンがあって、工事人たちがせーので崖を築いてやるみたいなのがいいなと思って、工事人で手っ取り早く分かるのが黄色いヘルメットだなあということで、で、翌年からイエローヘルメッツが開場時間に1曲歌うっていうのを入れたんです。これは開演前に何か変なことやってるみたい、ということが口コミで広がって、開演に遅れてくる人が減るんじゃないかって思ったんです。
Q:「子どものためのシェイクスピア」になってから何作品目になりますか?
Y:9本。でもシェイクスピア37作品のうちのヘンリー4世が一部二部と二つあるんですが、まとめてやったので作品としては10本やったことになりますね。
Q:シナリオの話なんですが、「ハムレット」は全長版だと4時間くらいの作品ですが、今回の作品はそれが2時間10分で構成されてます。その再構成は山崎さんがやられてるんですか?それで台詞の落とし方なんかについて考え方とかありましたか?
Y:僕がやったんですが、先ずは長台詞どうしようというのがありましたね。これはハムレットの自問自答が多いんですが、まあ言ってみれば見せ場なので、ハムレットやりたい人はあれをやりたいんだろうなあって思うんですが。僕たちの場合黒コートがいるので彼らをどういう存在にするのか。
それとハムレットの頭の中の自問自答をどうするか。というところで、黒コートとハムレットのキャッチボールで独白の部分を処理したいというのがありました。それからもう一つは、ぼくの中ではフォーティンブラスが気になっていて、ハムレットは「この国の王位を継ぐのはフォーティンブラス」と言って死んでいくんですが、よその国の王子に王位を譲るわけじゃないですか、ホントにそんなことしていいのみたいな疑問があって、だからフォーティンブラスをどっかで中に置いていかないとお客さんは分からないだろうなと思ってました。
それから落としたところですが、墓掘りのシーンはフリートークにしました(笑)。蜷川さんは「あの墓掘りのシーンでハードルを一つ越えるんだ。僕はあのシーンで一つ発見したんだ」って言ってて、それは蜷川さんの発見だと思うんですが、ハムレットは稽古を重ねるたびにいろんな発見がありますね。先日、松岡和子さんとお話しして、93年にハムレットを翻訳し、再出版するときには必ず自分で赤チェック入れて全部訳を変える、それがハムレットにはいっぱいあるのよって言ってました。
シェイクスピアの作品って、「その木なんの木不思議な木♪」みたいなすごい枝ぶりの木で、青々と繁ってて、全体が見えないくらい、とにかくでかい感じの木なんですよね。葉っぱをチョキチョキ切っていくと、だんだん枝が見えてきて…、それで葉っぱが台詞で、枝が登場人物で、幹がストーリ−で…。幹は真っ直ぐもあれば二股もあれば、いろんな形があるわけですね。それで、その幹の形がよく分かるように葉っぱ(台詞を)、をうまく剪定していければって思うんですね。
こないだ小田島さん(翻訳家・今回のシナリオは小田島版を基にしている)との対談で、(台詞を)変えていいんだよって言われてホッとしましたけどね。最初に、「台本読ましてもらったけど八割方成功だな」って言われて、こんなに褒められちゃっていいのかなって思いましたけど(笑)。で、一緒にいた植本潤ちゃんが、小田島さんにそんなに褒められたら、この対談は終わったようなもんですねって…、始まったばっかりだったんですけどね(笑)。
Q:次回は「尺には尺を」ですね。これで10本目。シェイクスピア作品、全作品上演は考えているんでしょうか。
Y:それはよく聞かれるんだけど、とりあえず考えてないです。1年1本のペースで上演するとあと27年かかっちゃうしね…(笑)。
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