UZU・UZUインタビュー18-01
   
   















2002年10月5日。二人のエンターテイナー「さとう宗幸」と「伊奈かっぺい」がえずこホールを訪れました。

おなじみ宗さんこと、さとう宗幸が、これまでの足跡やエピソード、そして、ふるさとへの熱い思いを垣間見ることができました。



Q: えずこホール 、 M: さとう宗幸さん)


Q: 昭和47年大学卒業後(23歳)就職、ラジオから流れてきた「岩尾別旅情」を聴いて音楽への情熱が再燃、仙台へ戻りコンサート活動をはじめたそうですが、その「岩尾別旅情」を聴いたときどんな気持ちだったんでしょう。

さとう宗幸: そのときはすでに音楽活動から離れて、サラリーマン生活を始めていたころでした。学生のころは、歌声喫茶などで人前でもよく歌を歌ってましたが、就職が決まり東京に出てからは、もう音楽とは関わることはないだろうと思っていました。

ところが、東京のラジオ局から、僕が作曲した「岩尾別旅情」を流して、この曲にまつわる話を聞きたいと依頼があり、それで行った放送局の雰囲気とそのとき流されたこの曲を聴いたときに、また音楽への情熱が沸々と沸いてきたんです。




このことが、それからの僕の音楽活動には決定的な出来事になりました。もうあと1、2年東京でサラリーマン生活をしていたら、本当に音楽とは、趣味程度での関わり方しかできなかったかもしれませんね。

とはいっても、急に広い東京で音楽をしていくには、いささか不安はありました。

そして、仙台での歌声喫茶を思い出したんです。そこなら自分の音楽が何の壁も感じることなくできるって思ったんですね。

その意味では、歌声喫茶がなかったら同様に音楽活動はしなかったでしょう。

3年半ほど歌声喫茶をやりました。その間、作った楽曲はたまる一方、変わり映えのない環境を脱して音楽をやってみたいと思うようになっていました。

そして、ライブハウスでのコンサート中心の活動をはじめました。 宗さんによる楽しいお話に加え、熱い歌声に、会場も盛り上がりました。





Q: 昭和51年にアルバム「バラ色の人生」を自主制作されましたが。

M: 独立したときには、音楽喫茶のときのように、固定のサラリーは、なくなってましたから、経済的にも厳しいときもありました。それでも音楽をやめようと思ったことは一度もなかったですね。

当時は、音楽活動するのも、自分でライブハウスを探すところから、総て一人でやっていました。ギター一本でライブやってるシンガーたちというのは、とても熱い想いでやっています。そのことをわかって支えてくださる方々がたくさんいましたから、僕はいい時代に苦労したと思っています。

あるとき、ライブハウスの方から、質問されたんです。「あなたは、プロなんですか?アマチュアなんですか?」って。それまで、音楽をすることにプロやアマチュアなどということを意識していませんでした。でも、このことが相手の関わり方を変えてくるんです。

それからは、自分のためにもプロとして活動していると言うようになりました。そのころですね、楽曲も貯まっていたこの時期に、自主制作のアルバムを作ったのは・・・。プロとしてというのではなく、ちょうど機が熟して、生まれたアルバムだったんですね。




宗さんによる楽しい
お話に加え、熱い歌声に、
会場も盛り上がりました。


Q: 翌昭和52年、NHK仙台FMリクエストアワーに寄せられた詩に曲をつけた「青葉城恋歌」が翌年ヒットとなるわけなんですが、その辺のいきさつをお聞かせください。

M: あの番組で僕の前任者だった岩渕まこと君が、東京での活動をきっかけにやめて、それで、3時間の生番組をやることになったんです。その中に作詞、作曲をまとめるというコーナーがあって、1ヵ月ほど経ってから届いたのが、「青葉城恋唄」だったんです。

当初番組の打ち合わせでNHKに行くと、来てるはがきが5枚とか10枚で、たぶん僕が寂しそうにしてたんでしょうね。それを見てたディレクターが、そのはがき1枚に付き200名のリスナーがいるんだからと言ってくれました。でも、今思うとその数字の根拠って何もないんですよね(笑)。

でもね、それががすごく励みになりました。それからです。少しずつはがきが増え、番組のスタジオに来られるお客さん用のパイプ椅子いっぱいになっていました。そして、いつのまにか番組の視聴率での数字が上っていったんです。



Q: 多くの活躍の中、ミュージカル公演、「タンポポ山でゆっくり休め」では、特に地元のスズキヘキを題材にした公演で、地元に対する思いがとても強いように思えるんですが。

M: 西の金子いすゞ、北のスズキヘキと言われるほど地方では認められながらも、彼は東京に出ずに地元でずっと児童文学への火をともし続けてたんですね。僕はすごく誇りに思っていました。

そんな宮城県の偉人を目を凝らして見ていたいと思いました。それを永六輔さんにお話しましたら、ためらわずにその本は私に書かせてくれと言って、全面的な協力をいただいたんです。



Q: 「OHバンデス」をはじめ多くの生番組を務められるのはとてもたいへんだと思うのですが、その辺の大変さと、逆に楽しさ、面白さなどがあれば、お伺いしたいのですが。

M: むしろ大変だとかつらいというよりも、日々楽しくやっています。その楽しさを見てくれる人に伝えることができたらすばらしいことですね。



(2002年11月5日、えずこホール楽屋にて)




さとう宗幸プロフィール

1977年、NHK仙台「FMリクエストアワー」でDJを担当。

同番組に寄せられた詞に曲をつけ「青葉城恋唄」を創作。翌78年、同曲で爆発的ヒットを生み、売上げも100万枚を突破。その年のレコード大賞新人賞、日本作詞大賞、FNS音楽祭最優秀新人賞など賞を総なめにしたことは、あまりにも有名。

81年には、TBSドラマ「2年B組仙八先生」、87年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」などに出演。役者としてもその才能を発揮した。

一方、88年には「日中友好記念」2週間にわたる中国公演を行い、延べ2万人以上の観客を動員、大成功を収めるなど、国際的な音楽活動も行っている。

92年には、「友好県省締結5周年記念・吉林省文化交流事業」の一環として「さとう宗幸吉林省公演」を開催。91年、ミュージカル「O2〈オートゥー〉わたしたちは木を呼吸しています物語」を総合プロデュース・主演し、その多彩な才能を発揮。

95年からは「OH!バンデス」、「午後は○○おもいっきりテレビ」など多くのテレビ番組に出演し、お茶の間の顔として多くのファンを獲得。

芸能活動25周年に向け、今後も多岐にわたる活躍が大いに期待されている。




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