萩本欽一さんインタビュー
'70年代から'80年代にかけて、「視聴率100%男」の異名をとるほどの人気を誇った、お笑い界のスーパースター欽ちゃんこと萩本欽一が、2003年12月13日に自らの劇団欽劇「座ぶとん座」を率いてえずこホールやってきました。
お笑い界に入ったきっかけから近況までいろいろ伺いました。
萩本欽一さん
えずこホールにて
(2003年12月13日)
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Q.高校卒業後、59年に浅草東洋劇場でコメディアンデビューですが、コメディアンになろうと思ったきっかけはなんだったんでしょうか?
欽:僕が中学のころ、昭和30年ごろですが、まだ戦後それほど経ってない時期で、みんな貧乏してた時代ですね。ひどい家に住んでたもんで、子ども心に大きな家に住みたいなって思ってて、そのためには大きな家が建てられるような仕事を探さなきゃって思ってたんですね。
それで、たまたま中学の同級生の女の子が見てたアイドル雑誌の中に、映画スターが大きな家に住んでる写真があって、はじめは映画スターになろうと思ったんだけど、鏡見たらそのスターと随分顔立ちが違うんだよね(笑)。
それで、主役じゃなくて、お笑いの役、当事でいうと堺駿二さんとか伴淳三郎さんとか、そういう役なら競争相手も少なそうだしと思って、それでお笑いやってる人たちの家を見て回ったの。そのときたまたま見たのが森繁久弥さんと清川虹子さんの家で、森繁さんの家は洋館で聳え立ってる家。清川虹子さんの家は庭に芝生が生えててね…。二人の家見て、なんだか知らないけどコメディアンになろうと思ったんだね。
それで、当時のお笑いのトップのエノケンさんの本読んだら、エノケンさんが浅草でやってたって書いてあって、それで浅草へ行ったんです。才能があったとかいうわけでもなく、目で見て、勝手に職業選んで飛んでっちゃったていう感じかな。
そのせいか、人生の中でどうも合わないとこへ来たなっていう感覚がなかなか取れてなくて、成功してほっとしてはいるけど、自分がこの仕事に適してるとは思ってないんだよね。僕はずーっと駄目な子で、その子がこんなにうまくいくんだから、日本っていい国なんだなあって感謝してます。こんな子が成功する国なんて日本くらいしかないんじゃないかな。
Q.東洋劇場に入ったころは、どんな感じだったんですか?
欽:最初は舞台で震えてせりふが言えなくて、先輩が「お前こう言いたいんだろう」って何度も僕のせりふを言ってくれて…、それで、3ヵ月目には演出家の先生が、「コメディアンになるってやつで、普通は来て1週間から1ヵ月くらいでそれらしい姿を見せる。
お前は3ヵ月経っても、笑いの影が見えない。たぶんこの仕事に適してないから、やめるなら早くやめろ。」って言われてね…。
Q.それでも続けたのには何か訳があったんですか?
欽:当時一家離散のような状態で、帰る家がなかったというのが1つ。それから、他の仕事しても同じで、やっぱり駄目なんじゃないかと思ってたのね。でも、そのときはやめようと思いましたよ。それでしょんぼりしてたら、そんときの師匠が「どうしたんだお前」って聞くんですね。
それで「今、演出家の先生から、才能ないからやめろって言われたんです」って言ったら、「ちょっと待ってろ」って言って、演出家の先生の所へ飛んでいって10分くらいで帰ってきて、「俺が言ってきてやったから、お前、ずっと続けろ」って言ってくれたんです。
それから、演出家の先生が僕んとこへ来て、「今、お前の師匠が来て、あいつは才能はないけど、いい返事するんだ。最近あんな気持ちのいい返事するやついないから、少し置いといてくれないかっていうんだ。
この世界では、駄目なときに誰か助ける人がいるっていうやつが成功するんだ。お前は才能ないけどずっと続けろ。」って言ってくれてね…。才能はないけど、人の助けがあってここまでやってこれたんだなってつくづく思いますね。
Q.66年に、名コンビ坂上二郎さんと「コント55号」を結成し、大ブームを巻き起こすわけですが、二郎さんとはどんな出会いだったのでしょう。
欽:たまたま、僕が出てた劇場の上の劇場に出てたんです。その頃テレビに出てるお笑いの人は、8割方浅草出身で、そろそろ一人前になる頃に、みんなコンビやトリオ組んで出て行くんですね。僕は最初一人でやりたいと思っていて誰とも組まなかったんです。二郎さんもそう思ってたらしくて一人だったんですね。
それで、あるとき二郎さんが「もう浅草でコンビ組んでないの欽ちゃんと俺くらいしかいないよ。一人でやろうと思ってたけど大変だから、なんなら一緒にやろうか」って、なんか残った二人がひとりでにくっついた感じでしたね。
Q.「コント55号」はテレビに登場して、あっという間にお茶の間の人気者になってしまったんですが、それまでのお笑いと比べてすごくスピード感があって、ダイナミックな動きが特徴だなという印象を持っているんですが、自分ではどのように感じていましたか?
欽:10年間苦労して、やっと皆に見てもらって笑ってもらえる場所に出てきたことが、自分でも嬉しかったんでしょうね。スピードを上げたのも時間がもったいない、一つでも多くみんなに笑ってもらいたいという気持ち。
それと、心が弾んでじっとしていられないという気持ちから自然にそうなったんでしょうね。
Q.'70年代から'80年代当時、「欽ドン!」を皮切りに、「欽ちゃんのどこまでやるの!」「週間欽曜日」などが高視聴率をとり、「視聴率100%男」の異名をとるほど熱狂的にうけたわけですが、自分としてはどういったところがうけたと思いますか?
欽:当時、自分たちがそれほどすごくうけてると思ってなかったし、逆にいろんな人が分析をしてくれて、あーだ、こーだと書いてるのを読んでそうなのかと思ったくらいで…。
それで「子どもから大学教授まで笑える55号」という活字を読んだときはいやに嬉しかったですね。ああ55号ってそういう笑いなんだ。このいただいた言葉を大事にしたいなって思いましたね。
Q.『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年10月〜1986年9月)で、出演家族が、突然本番中に「本日はNHKさんにお招き頂きありがとうございます。NHKさんに出られて幸せです」という勘違いのハプニングがあり、それがすごくうけて…、それから、笑いに関しては素人同然のタレントや一般人から、巧みに笑いを引き出すやり方をどんどん取り入れていくわけなんですが…。
欽:素人には僕たちを超えた何かがある。いっぱいあるわけじゃないけど、なにか一つみんないいものを持っていて、それが出れば僕を超えることもあるし、番組も楽しくなるっていうこと。
もう一つは、素人にはできないことがあって、僕がそれを補うことで僕が生きてくるというか、その人を生かすことで日本にたった一つしかない笑いを持ってる人が出てきて、それと欽ちゃんが掛け合いをするということかな。ですから素人に一生懸命夢中になった時期がありましたね。
Q.1978年から24時間テレビ「愛は地球を救う」で7回まで司会を務められています。始められたきっかけは?
欽:若いころ貧乏して、いろいろな人に支えられてやってこれたわけで、年に1回くらい皆に感謝をする日があってもいいなと思って引き受けたんです。
欽ちゃんこれまでテレビに出させてもらってありがとう。1年に1日だけで申し訳ないんだけど、みんなにありがとう、そんな気持ちですね。
Q.それから、1985年2月8日にTBS楽屋で休養宣言をされたんですが。どんな心境だったのでしょうか?
欽:僕が貧乏で辛い思いをしたのは16年間くらい、その後16年間テレビでいい思いしたのね。それで、これ以上がっついたら神様が罰を当てるんじゃないかって思ったの。それと体力の限界かな。忙しかったころって、朝10時に起きてテレビ局へ行って、テレビの収録が終わるのが午後9時。それから家へ帰って10時から夜中の3時まで打ち合わせをして、という生活が延々と続いてたんですね。休養宣言をしたのは45歳のとき、ほんとはやめるって言おうと思ったんだけど、みんなからかっこ良過ぎだっていわれて、それで充電するって言ったのね。なぜ45歳かっていうと、野球の王さん、彼は体力づくりを一生懸命やって仕事をしてた人ですよね。その彼が40歳で体力の限界ですって言ったんです。あれが大きかったかな。僕たち体力づくりしてないんですよね。お客様は優しいから許してくれますよ。歳なんだから動けなくてもいいよってね。でも、そういう言葉に甘えちゃうのもやだなって思ってたのね。
Q.91年には欽ちゃん劇団を
旗揚げしましたが、旗揚げのきっかけは?
欽:単純なことでね。自分が動けなきゃ、別の欽ちゃんを作って、そいつが僕と同じように走り回ってくれれば自分がやるのと同じだと思ったわけ。
でも10年経って分かったんだけど、欽ちゃんをもう一人作ることはできないんだっていうこと。
それはごく最近のことで、それで気づいたんだけど、60歳なら60歳の欽ちゃんをやればいいんだなっていうこと。
Q.「萩本家の玄関にあるスリッパは床に接着してあり、リアクションを見られる」「ジミー大西に会った時、こいつは天才だと見込んで1週間自宅に監禁した」ってホントなんですか?
欽:昔の話ですけどね。当時、コメディアンや作家が家にごろごろしてて、それで、わけのわかんない生活を実践することでギャグが分かってくるということで、おかしいこと考えたらすぐ実行。家中ギャグだらけでしたね。スリッパは車ダン吉が釘で打ち付けたんです。みんなひっくり返ってましたね。これがみんないいコケするんですよ。
それから、トイレにはタキシードがかけてあって「どうぞこれでお拭きください」って書いてあったり、押す扉のトイレなのに引くっていうプレート貼ってあって、お客さんみんなトイレにいけなくて、我慢してばったり倒れたり、タバコ買ってきますとかいって外に出て行ったり、家にきたお客さんでトイレに入った人いないんですよ。紙も減らないし、水も流さないから経済的でしたけどね。若い連中が家にいたころは、ずっとそんなでしたね。
Q.短編映画を観たいだけ観る。というシネマジャック。それから4コマ漫画おまけつきという、新しいことにも取り組んでいますが、どんなところから発想しているのでしょうか?
欽:僕にとって映画っていうのは、50円もってチャンバラ観にいくとか。日曜日になると親父が「映画でも観に行こうか」というような、とても気楽な大衆娯楽だったんですね。ところが、今は芸術になってしまって、気楽な映画を作る人が少なくなってしまった。
でも、気楽な映画がないと大作が目立たない。昔は、駄作といわれるたくさんの娯楽映画があって、そのなかに大作があったから目立った。娯楽と芸術の両方があるからその対比でお互いが際立つということがあって、それで、僕はその気楽なほう、大衆娯楽として楽しく観られるほうを作ろうって思ったんですね。
4コマ漫画おまけつきは、5コマ漫画にすると5コマ目がオチだと思われちゃいますよね。そうじゃなくてオチが2つあるっていうことで4コマ漫画おまけつきにしたんです。振りが3コマあれば笑いが二つくらいあるのは可能だという発想ですね。
Q.映画の話がでたところで、チャップリンに会いに行かれましたが、なぜ会いに行こうと思ったのでしょうか?
欽:当時、笑いのナンバーワンはチャップリン。目指すはチャップリン、チャップリンのようになりたいって言ってたんですが、だけどチャップリンってどういう人だか分からないんですよね。
それで、どういう人だか分かんないのになりたいってどういうことなんだろうって、自分に疑問持ったもんですから、一度会って確かめてようと思って行ったんですね。
Q.実際会われた印象はどうでしたか?
欽:すごい優しい目をして、優しい気持ちを持った、想像もつかない、すごくいい小父さんっていう感じ。偉大なチャップリンなんてどこにもない。出てきた姿がガウンだったしね。日本人で言えば寝巻きで出てきたっていう感じでしょ。頭に櫛も入れてないし…。
でも、目を細めて、どこから来たの?って聞いてくれて、日本からって言ったら、そんな遠くからよく来てくれたね。寒いから早く家に入んなよ…、って言って。家だけじゃなくて、庭を散歩したり。来てごらん、これが僕の書斎だよ。とか、案内してくれたり…。
それで、ごめんね。今、妻が風邪引いて寝てるからあまり長いことお付き合いできないんだけどね。って言うんですよね。それでも40分くらい付き合ってくれましたね。
それで、あの人間性にはかなわない。もう挑戦するのやめようって思ったの。挑戦ってなんか歯向かう感じがあるじゃない。でも、あんないい人に挑戦なんてできないってね。
Q.今やってていちばん面白いことって何ですか?
欽:今、漫画のネタのこともあって、55号のころみたいに、毎日なにかないかなってネタを探してるんですね。昔みたいに締め切りに追われてるわけじゃないんですが、いつでも何をしてても頭の神経がお笑いの神経になっているという感じ、そういう状態の自分がであることが楽しいというか、気分がいいですね。
毎週考えなきゃないものがあって、舞台みたいに1年かけて作るものがあって、ほかにときどきステージがあってちょっと出て行ったり、気持ち的には、今、ちょうどいいリズムで気持ちよくやれてる感じ。60歳の欽ちゃんを心地よくやってますよ。
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